美空ひばりさん死去(下) 米ワシントン・ポスト紙は「天皇の死去とともに昭和の時代が終わった…」と報じる!!

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戦後の日本歌謡に君臨した美空ひばりさんの死去は、同時に「昭和の終焉」ともなった。ひばりさんの死去は瞬く間に芸能界に伝わった。東京・文京区の順天堂大学病院や東京・目黒区青葉台の”ひばり邸”には、生前、ひばりさんと親しかった萬屋錦之介やタレントの中村メイコ、神津善行夫妻、岸本加世子らが続々と駆けつけた。
岸本は、布団の中に手を入れて病魔と闘ったひばりさんの足を擦りながら「もっと生きて欲しかった」と泣き崩れていた。
ひばりさんの訃報に、テレビ各局も対応に追われた。亡くなった早朝から臨時ニュースを流した。
もっとも早く、死去を伝えたのはTBSだった。午前1時59分46秒に第1報を放送、午前2時からは約4分間、3時からは11分間、そして3時50分からは30分間、過去のVTRを交えながら異例の緊急特番を放送した。さらに、正午からは「追悼・歌謡界の女王・美空ひばりさん逝く」と題した2時間のスペシャル番組を緊急編成した。

日本テレビ――午前2時31分に速報スーパーを入れ、深夜番組「TOKYO HOT」の中で、徳光和夫アナが再三、ひばりの死亡のニュースを放送し続け、早朝の5時30分からは30分間の緊急特番を組むなどで対応。さらに、正午から放送の「サスペンス傑作劇場」を追悼番組に切り替えるなどした。
 テレビ朝日――午前2時36分に、生放送中の「プレステージ」の中で第1報で伝えた上で、同番組を通常より1時間延長し、6時まで追悼番組に当てる内容に変更した。さらに昼には映画を含む4時間もの特番「不死鳥・美空ひばり逝く」を放送した。
「各テレビ局が、死亡直後から終日、追悼特番を組んだのは、異例というより前代未聞のことでした。もちろんスポーツ紙はもちろん一般全国紙も一面で扱うなど、軒並みトップ扱いでした。しかし、それだけ、ひばりさんの存在は大きかったということです」(某芸能記者)
当時、芸能には冷ややかだったNHKも異例の対応をした。早朝、大雨警報の情報を流していたが、午前3時16分に死去の第1報を伝えた他、5時と6時からの全国ニュースでもトップ・ニュースとして大きく報じていた。
ひばりさんの死は当時、CDやカセット、ビデオの販売にも結びついた。都内のレコード・ショップでは、ひばりさんの関連商品が飛ぶように売れ、品切れ店も続出した。一方、大阪有線放送(現USEN)は、この日は24時間体制の「特番」を設け、ひばりさんの作品を流し続けた。
「ひばりさんの最後の番組となったニッポン放送の10時間番組『美空ひばり感動この1曲』のCDとカセット・テープが、偶然にも6月21日に発売されたんです。どこのレコード店も、このCDとカセットが人気となっていました」(音楽関係者)。
因みに、ニッポン放送と日本コロムビアは、ひばりさんの二十三回忌に合わせ6月24日にひばりさんの2枚組CD全集「美空ひばり 夢のオン・ステージ〜ひばりの前にひばりなく、ひばりのあとにひばりなし〜」を発売する。
同CDは、今回の二十三回忌の法要では進行役(司会)を務め、ニッポン放送では土曜日の早朝に5時間ものワイド番組「徳光和夫 とくもり!歌謡サタデー」でパーソナリティーを担当している徳光和夫が企画したもの。
また、「美空ひばりさんの歌碑(みだれ髪の歌碑とひばりさんの像)」が、福島県いわき市の塩屋岬に建っているが、この歌碑は東日本大震災の大津波にも遭いながらも残ったことから、大震災復興のシンボルにもなっているという。このことからニッポン放送ではCDに急きょ「みだれ髪」と同曲のカラオケを特別に収録、そればかりかCDのラスト曲には「人生一路」を収め「東北の早期復興をCDに込めた」としている。
ところで、東京ドームで行った復活公演「ひばりIN TOKYO DOME」のビデオ(現在はDVD)は、二十数年経った今でもヒット商品となっている。「亡くなった当時は、ひばりさん関連の商品だけで少なくとも100億円以上に売上げになったと思います。ひばりさん関連のCDやDVDは、安定商品の代表格で、現在でも年間10億円前後の売上げとなっています。ハッキリ言って、並のポップス・アーティスト以上の売上げです」(レコード関係者)。
戦後の焦土に切なく流れた「悲しき口笛」から「リンゴ追分」、そして「港町十三番地」「柔」「悲しい酒」、さらに晩年の「愛燦燦」「川の流れのように」…。ひばりさんの歌声は常に時代を映し出してきた。しかも、その人気は衰えることがない。
一方、ひばりの訃報を聞いた3人娘の1人で、今回の二十三回忌の法要では、発起人でもあった歌手の雪村いずみは、記者団から「今の気持ちは」と聞かれると、足元をじっと見つめたままで「わかりません」と絞り出すように答えるのが精一杯だった。
雪村は、仕事先の神戸で就寝中の午前3時に知らせを聞き呆然となったという。「”3人娘”と呼ばれていなかったら、今の私はなかった。お嬢は私の大恩人です」。記者から「言葉をかけるとしたら」と問われると「いっぱいあり過ぎて言えません」と言うと泣き崩れた。
ひばりさんの通夜は、25日の午後7時から営まれた。この日だけで全国から1万人を超えるファンが弔問に詰めかけ、ひばり邸は騒然となった。また、密葬は26日午後零時半から執り行われたが、参列者は、この日も1万人を超えるなど、改めて、ひばり人気の高さを証明した。
午後3時、ひばりさんの遺体を乗せた霊きゅう車が走り出すと、周辺から「ひばりちゃん!」「生き返ってきて!」と泣き叫ぶファンで、ひばり邸前は、涙の大洪水となった。ひばりさんの遺体は、桐ヶ谷斎場に運ばれたが、その斎場にも2万人を超えるファンが殺到し、周辺はパニック状態だったという。
因みに、ひばりさん死去のニュースは、米ワシントン・ポスト紙でも「日本のバラード歌手死去」の見出しで報じた、この記事の中で「1月の天皇の死去とともに昭和の時代が終わった」と解説していたという。
ひばりさんは「国民栄誉賞」を受賞した。当時、「国民栄誉賞」は7人目だったが、女性では初めての受賞となった。

美空ひばりさん死去(中) 加藤和也社長の初仕事・初プロデュースだった横浜アリーナでの“不死鳥公演”は幻に…。

「美空ひばりさんが亡くなったという情報が流れたのは24日の午前2時過ぎでした。その情報は衝撃波となって芸能界に瞬く間に伝え広がりました」(マスコミ関係者)。
89年6月24日未明――この日は大雨警報が出るほどの荒れた天気だった、しかも深夜だったにも拘わらず、真相を探ろうと入院先の順天堂大学病院には100人を超える報道陣が殺到して大混乱となった。その間、病院で担当医が容体について記者会見をするという情報や、何故か、警視庁関係筋から「ひばりさんは、すでに目黒の自宅に戻った」なんていう情報まで流れ、詰め掛けた報道陣の緊迫ムードは一気に高まった。
ひばりさんの死亡が正式に発表されたのは、亡くなってから2時間半過ぎた午前3時過ぎのことだった。
ひばりさんの遺体は、午前2時20分に青葉台の自宅に戻った。ひばりさんの自宅前で、記者会見を行った日本コロムビアの大槻孝造・宣伝部主幹(当時)は「最期を見取ったのは息子で、ひばりプロの加藤和也副社長(現社長)と、ひばりさんの女性の付き人2人でした。昨日までは元気だと聞いていましたので驚いています」と言葉少なめに語っていた。
ひばりさんは全国ツアー中、入退院を繰り返していたが3月21日、自宅からニッポン放送の10時間特番「美空ひばり感動のこの1曲」に出演。「放送終了後、体調を崩し順天堂大学病院に再入院した。
その直後だった。「髪が抜けるようになった」とか「肺に重大障害があるらしい」「げっそりやつれて見る影もなくなった」と病状が深刻になっていることをうかがわせていた。その間、順天堂大学病院のひばりさんの病室には”厳重ガード”が敷かれ、面会謝絶の状態の中で治療が続いていたという。
「実は、入院していなければ、4月17日に東京ドームに続く”不死鳥公演”が、横浜アリーナで行われる予定だったんです。加藤和也さんの初仕事、初プロデュースになるはずだったんですけど、今になって思えば幻のコンサートになってしまった」(当時のコロムビア関係者)。
ひばりさんは、左右大腿骨骨頭壊死という難病に蝕まれ、さらに慢性肝臓病も抱えていた。
「左右大腿骨骨頭壊死は、骨盤につながる大腿骨の先端部分(大腿骨骨頭)が死んで壊れていく病気。完治するためには手術をして、人工骨頭と交換する必要があるが、ひばりさんの場合は、肝臓の病気が悪化していたため無理だった」(病院関係者)。
ひばりさんが無理してコンサートなどを行ったことも寿命を縮める結果となった。「病状は悪化していた。再入院したときは、すでに回復するのは無理な状態だった」とも言われる。ひばりプロは死因を「間質性肺炎による呼吸不全」と発表していたが、一部には悪性腫瘍(肝臓がん)が進行していた」といった情報もあった。
(つづく)

美空ひばりさん二十三回忌法要(上) 88年の年末にディナーショーを開いた思い出の帝国ホテルで…

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戦後のスーパースターと言われ、敗戦後の国民を励まし続け、昭和の終わりとともに逝った”歌謡界の女王”美空ひばりさん。
今年は、ひばりさんの二十三回忌。
きょう20日、東京・日比谷の帝国ホテル(孔雀の間)では、二十三回忌の法要が営まれた。会場には800人が招かれ在りし日のひばりさんを偲んだ。徳光和夫の司会で進行した法要、献杯の発声は、元NHK会長の海老沢勝二氏が行った。
思い起こせば、ひばりさんが入院先の東京・文京区の順天堂大学病院で亡くなったのは89年6月24日のことだった。52歳。死因は、間質性肺炎による呼吸不全。
改めて当時を振り返ってみた。
ひばりさんは、87年4月に左右大腿骨骨頭壊死と慢性肝臓病のため、福岡県の済生会福岡総合病院に入院、この年の8月3日に退院。112日ぶりに東京・目黒区青葉台の「ひばり邸」に戻った。周囲からは「奇跡の回復」と言われた。翌88年の正月には、本格的な復帰に向けハワイで静養、帰国後はアルバムのレコーディングに入った。そして、闘病から1年後の4月11日には復帰第1弾として初の東京ドーム公演「ひばりIN TOKYO DOME」を行ったが、そのダイナミックなステージは「不死鳥ひばり」と驚かせたものだった。
「病み上がりで、傍目から見ても辛そうだった。ところが、ステージに上がったひばりさんは、まるで神がかったように熱唱していました。ステージに生きてきたひばりさんのプロとしての根性を垣間見ました。ステージから降りたひばりさんはグッタリしていました」(関係者)
東京ドーム公演後は、闘病生活を送った福岡市の福岡サンパレスを皮切りに「ご恩返しコンサート」スタート、この年の年末12月25、26日には今回、二十三回忌の法要の場ともなった帝国ホテルで2年ぶりのディナーショーを行ったが、そのチケットは1枚6万5000円と高額で大きな話題となったものだった。因みに、この金額は24年経った現在でも破られていない。
89年2月には、再び福岡を皮切りに全国28ヶ所の全国ツアーが行ったが、これが、ひばりの最後の全国ツアーとなってしまった。
ツアー中、ひばりは入退院を繰り返し3月23日、ひばりプロダクションと所属レコード会社の日本コロムビアは記者会見を行い「アレルギー性気管支炎悪化」を理由に「年内休養」と発表した。
 「この時に、ひばりの重病説が度々流れ、その都度、大騒ぎになった。マスコミの矢面に立ったのはコロムビアの宣伝部長(境弘邦氏)だったが、ひばりの病室での写真や直筆メッセージ、さらには、ひばりさんが病室で描いた絵などを公開して、重病説を否定、元気なことをアピールしていました。今、考えると、ひばりさんの病気が悪化していることをファンに知らせまいとしていたんでしょうね」(当時を知るマスコミ関係者)。
しかし、再び”奇跡の回復”を見せて、ステージに立つことを待ち望んでいた国民の願いも届かず、6月24日午前零時28分、52年の華麗なる花の生涯にピリオドを打った。
(つづく)