日本では殆ど話題にもされなかったブルース・リーの死…NHK−BS2が27日から代表作」3夜連続放送へ(下)

20100720175323.jpg73年7月20日。香港が生んだ世界的なカンフーの大スター、ブルース・リー【写真】が亡くなったことについて実は、日本では殆ど報道されていなかった。さる映画関係者は言う。
「日本では話題にすらならなかったですね。ブルース・リーの人気は、亡くなった直後にハリウッド映画として公開された『燃えよドラゴン』が全米で大ヒットしてからなんです。日本では正月映画として公開されましたが、公開されるや日本でも熱狂的なカンフー映画ブームが巻き起こりました」。
日本でのリー作品は74年1月の「燃えよドラゴン」が最初。その後、「危機一発」「怒りの鉄拳」などが東和(現在の東宝東和)で公開された。
「当時、日本の興行界は香港映画に全く目を向けていなかった。ブルース・リーの名前も『香港の空手役者』程度しか認識なかった。恐らく、試写前にフィルムを観た映画関係者はいなかったかもしれませんね」(当時を知る映画担当記者)
日本で香港映画が低く見られていたことは事実だが、リーの登場で、その状況は一転したという。巷にはヌンチャクを振り回す小中学生で溢れ、そのヌンチャクはバカ売れした。
東京・渋谷にあったマニア向け洋書専門店「アルバン」では、店内の一角に「ブルース・リー」コーナーまで設け、輸入ビデオや写真集、さらにはリーのフィギュア、まで販売したところ、全国からファンが殺到して店内が混乱したという。
リーの人気は、年を追うごとに高まったが、その一方で、リーの謎めいた死についても語り継がれてきた。
リーの才能に目をつけた「育ての親」とも言うべき香港の映画会社「ゴールデン・ハーベスト」のレイモンド・チョウ氏は、そういった謎に対して当時
「死んだ場所は映画女優のベティ・ティン・パイの家だったんです」
と吐露したのだ。
「ペティとリーは『死亡遊戯』(遺作)の撮影に入っていて、その脚本の一部を変える打ち合わせをするために、私とリーは一緒に彼女の家を訪ねたんです」。
打ち合わせをしていた途中でリーの体調に異変が起こったという。
「疲れて頭が痛いと言い出したので、横になった。心配したペティがリーに薬を与えたんですが、それは彼女の主治医が彼女のために処方した頭痛薬だった。薬を飲んだリーをぺディは、自分のベッドに寝かせたが、その後、リーの様子がおかしくなり意識不明の状態に陥ってしまった。で、医者を呼んで入院させる手配をした」
リーは、救急車でクィーン・エリザベス病院に搬送したが、ついにリーの意識は戻ることがなかった。チョウ氏によると、入院して45分後に息を引き取ったという。
「私は、リンダ夫人を病院に呼んだ。リンダ夫人はリーの死を聞くや、夫がペティの家で倒れたことはジャーナリズムには秘密にして欲しいと懇願された。夫の名誉と、ペティの女優生命を気遣ったのだと思う。でも、これが憶測を呼ぶ結果になってしまった」。
しかし、その一方で、リーの死に関して香港の英字紙「チャイナ・メール」は「ブルース・リー」(米国のジャーナリスト、アレン・ベン・ブロック氏の著書)の内容を連載した。
その中でリーの死に関して「調査の結果、血液中に大麻の痕跡が発見され、最終的には誤って死んだと判定された」と新たな死因を持ち出してきたことから、大きな話題となった。
これは、リーと働いたことのある空手家のエド・バーカーの推測として書かれたものだったのだが、それによると、リーは映画業界の仲間を含めて多くの敵がいたそうで「検視解剖を行っても分からない秘密の中国の薬を盛られたのかもしれない」と疑惑を呈した。
死因は「薬物」には変わりはないが、これまで、さまざまな憶測を呼び続けている。
因みに、撮影半ばで製作が中断していた「死亡遊戯」はリーの死後5年後に完成して公開された。
命日に合わせてなのか、それとも生誕70年に合わせて企画されたのかは分からないが、NHK−BS2は、7月27日に「燃えよドラゴン」(73年)、28日は「ドラゴン危機一発」(71年)、そして29日には、遺作となった78年の「ブルース・リー 死亡遊戯」を放送するという。

今日37年目の命日…生誕70年を迎えた香港の生んだ世界的カンフー・スター、ブルース・リーの生涯(上)

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「アッチョ〜」の雄叫びでカンフー映画をハリウッドに持ち込んだのが香港の生んだ大スター、ブルース・リー【写真】。今年は、そのブルース・リー生誕70年という節目の年なんだという。そのリーの命日が、きょう7月20日である。命日に合わせたかNHK‐BS2は7月27日から3夜連続で主演映画3本を放送。さらに、リーと交流のあった日本のアクション俳優、倉田保昭が足跡を辿るドキュメンタリー「それはブルース・リーから始まった」も26日に放送するなど在りし日のリーを偲ぶ。
生誕70年を迎え、再びブルース・リーが注目されている。
正直言って、当時のことは全く覚えていないがブルース・スリーが逝ったのは73年7月20日。しかも、その死は余りにも突然だったという。映画「死亡遊戯」の撮影中での突然死だった。死因は公式には「脳浮腫(のうふしゅ)」と発表されたが、その死は37年経った今でも謎を秘めているようだ。
「ブルース・リーの死は世界中の映画ファンにショックを与えました。特に、香港の中国人には大きな悲しみと衝撃でした」
そう言うのは当時を知る香港在住の芸能記者である。
「当時、日本ではブルース・リーの知名度は高くはなかったが、香港でのショックの大きさは地元紙にも表れていました。リーの急死を報じた21日付から25日の葬儀まで、全ての新聞が連日1面でリーを扱っていましたから…。こんなことはリーの死後、現在までありません。まさに前代未聞のことでした。リーの死は芸能を超えた事件でもあったんです。しかも、リーの追悼写真まで発売されて、街中で飛ぶように売れていた。リーは香港の生んだ英雄だったんです」
リーの本名は「李振藩」。中国での芸名は「李小龍」。米サンフランシスコ生まれの中国系米国人。父親は米巡業中だった広東演劇俳優のリー・ホイチョン。
リーの才能に目をつけたのは香港の映画プロデューサー、レイモンド・チョウ氏。
71年、チョウ氏は、自らが主宰する香港の映画会社「ゴールデン・ハーベスト」にリーを招いた。そして、リーが主演した映画「ドラゴン危機一発」は予想通りの大ヒットとなった。
香港映画でのリーの人気に米ワーナー・ブラザーズも食指を伸ばし、ゴールデン・ハーベストと提携してハリウッド映画として製作したのが「燃えよドラゴン」だった。しかし、この映画が全米で公開されたのは死後、1ヶ月経ってからのことだった。
「リーの逸話は、この映画で生まれたといってもいいでしょう。つまり『燃えよドラゴン』はリーの死後に全米で封切られ、当時、『ゴットファーザー』の13万に迫る大ヒットとなった。彼は、死後に世界的大スターになったんです」(映画関係者)。
32歳の若さで逝ったリーを米国では「東洋のジェームス・ディーン」と称え、リーの死を悲しんだという。
しかし、その一方で死からは最も遠いと思われていたリーの急死についての原因が当初、全く発表されなかったこともあって死因について謎が広まった。その後、「脳浮腫が原因」と発表されたものの、疑問視する声は広まった。
「死因については、英国から呼ばれた専門医によって検視されたが、リーがアスピリンとトランキライザーの超過敏体質だったため脳浮腫を起こした」
と、正式に発表された。
それでも深まる死因について、リーの育ての親であるチョウ氏は
「多量のアスピリン常用で脳浮腫が膨張し血管が切れた」
と説明した。
現時点では、これが公式発表になっているが、武闘家だったリーが何故、多量のアスピリンを常用していたのかなどの疑問は明らかにされなかった。
因みに、リーの葬儀は73年7月25日にゴールデン・ハーベスト社が取り仕切って香港で執り行った。その葬儀には2万人を超すファンが参列したという。
葬儀には米国からもスチーブ・マックィーンとジェームス・コバーンが、スケジュールを変更して駆けつけ、リーの死を惜しんだ。
(つづく)