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ジョン・レノン射殺事件から29年目。81年のワールド・ツアーでの日本武道 館4DAYSは” 幻”に…(下)

水曜日, 12月 9th, 2009

20091209124150.jpgジョン・レノンは、事件が起こる4日前の1980年12月5日(日本時間)、音楽評論家の湯川れい子さんからの国際電話に答えていた。TOKYO FMの番組「トラディショナルUSA」で、この日に日本で発売された5年ぶりのアルバム「ダブル・ファンタジー」についてインタビューしたものだった。もともと、インタビューする相手はヨーコ夫人だったそうが、偶然、隣にいたジョンが電話口に出たものだった。実にラッキーなインタビューとなった。さっそく湯川さんはジョンに、最近の心境を尋ねた。すると、ジョンは「I MISS JAPAN(日本が恋しい)」「今、僕が欲しいのはPEACE AND QUIET(平和と静けさ)だ!」と語ったという。また、この時、ヨーコ夫人は、湯川さんに事件を暗示するかのようなことを呟いた。「私たちの将来? それは全く分からない。何が起こるか分からない」。それから、僅か4日後に痛ましい事件が起こった。ヨーコ夫人は「葬儀はやらないが、週末に静かに通夜を行ってジョンの冥福を祈りたい。全世界の人々は、それぞれの場所で祈ってほしい」との声明を発表した。ファンによるジョンの追悼集会は12月14日に全米各地で、またジョンの故郷、英国のリバプールでも行われた。米ニューヨークでは10万人がセントラル・パークに集結し、10分間にわたって黙とうをした。ところで、ジョンは、81年3月からワールド・ツアーを行う予定だった。皮肉にも日本は、そのワールド・ツアーの皮切りになっていた。東京・日本武道館4DAYSの他、大阪や京都でも各1回の公演を予定し、81年1月から前売りチケットを発売する予定だった。しかし、ジョンの単独での初公演は幻に消えた。ジョンを撃った白人青年マーク・デービッド・チャップマン(当時25歳)は、熱狂的なビートルズ・ファンだった。「彼の部屋はビートルズのレコードで溢れ、自らもロック・グループを結成し、ビートルズの作品をコピーしていた」小学校時代の友人は、チャップマンについて、そう語っていた。小学校を卒業後、熱心なクリスチャンになり一時は宗教活動もしていたという。事件3年前の77年からはハワイに住んでいた。ビルのガードマンなどをしていたという。しかし、事件の2ヶ月前の10月23日に突然、辞表を出して辞めた。その日の勤務表には「ジョン・レノン」とサインしてあったという。チャップマンは、ジョンを射殺するために、借金してハワイからニューヨークに飛んできた。逮捕された時の所持金は2000ドル(当時の日本円で約42万円)だった。また、チャップマンは事件前まで2回の「自殺未遂歴」があったという。2回とも直後に精神疾患で入院したとされている。このため、ニューヨーク市警は逮捕直後、ニューヨーク市内のベルビュー病院に収容して精神鑑定を行ったが、心神喪失などの精神疾患は認められず殺人罪での起訴となった。チャップマンの弁護士は「今回の犯行は動機なき犯罪と言える」との談話を発表するなど”謎”の部分が多かった。しかも、ジョンが反戦運動をしていて当局からマークされていたことから「陰謀説」まで流れたが、結局はチャップマンの「単独犯行」に落ち着いた。事件から20年が経った00年、チャップマンは米デイリー・エクスプレス紙の獄中インタビューで「彼を撃て、という声が頭の中で聞こえた。頭の中に声が響いた。『やれ、やれ、やれ、やれ』と」「ジョンは、きっと僕が釈放された姿を見たがっていると思う」などと語っていた。チャップマンは現在54歳。20年から無期の禁固という不定期刑を受けて、現在もニューヨーク州アティカ刑務所に服役中だ。06年と08年の10月に同刑務所の仮釈放委員会は、チャップマンが申請していた「仮釈放」を退ける決定を下している。理由として「犯行の特異性」、さらには「公共の安全と福利にかかわる」ことを挙げていた。次回の仮釈放の申請は事件から30年目を迎える来年10月。因みに、ジョンが射殺された自宅マンション「ダコタ・ハウス」のあるニューヨークのセントラルパーク西側入り口前には、「iMAGIN」のモニュメントがあり、全世界からビートルズやジョンのファンが訪れている【写真】。

ジョン・レノン射殺から29年目…5年ぶりのアルバム発売した直後に自宅前で5発の銃弾に倒れる!!(上)

水曜日, 12月 9th, 2009

41M62GXV6ZL__SL500_AA240_.jpg「ジョン・レノン射殺される」。
それは1980年12月8日午後10時50分。日本時間では9日午後0時50分のことだった。
ザ・ビートルズのメンバーだったジョン・レノンが、米ニューヨークの自宅マンション「ダコタ・ハウス」前で、ピストルで撃たれて死亡した。
犯人の白人青年マーク・デービッド・チャップマン(当時25歳)は、通報で駆けつけた警察官に現行犯逮捕された。チャップマンは、ザ・ビートルズの熱狂的なファンだった。
ジョンは、射殺されるまでの5年間は隠とん生活に近い暮らしをしていたという。しかし、当時5歳だった息子のショーン・レノンから「パパ、ビートルズだったの?」と聞かれたことから奮起。5年に及ぶ沈黙を破って音楽活動を再開して、アルバム「ダブル・ファンタジー」を発表(日本は80年12月5日発売)したばかりだった。
ジャケット写真の撮影は、先ごろ「公然わいせつ」で騒動になった写真家の篠山紀信氏を起用し、ジョンとヨーコ夫人とのキスシーンをジャケットにした【写真】。レコード会社「ゲフィン・レコード」との契約金は50億円とも100億円とも言われた。
アルバム発売は「レノンついに沈黙破る!」と、世界的なニュースとなって、長い間、新作を心待ちにしていたファンを喜ばせた。ところが発売して間もなく、ジョンは凶弾に倒れてしまったのだ。自宅マンション「ダコタ・ハウス」は、ニューヨークのセントラルパークの西側入り口前にある。1984年に建てられた。ニューヨーク市内でも由緒ある高級マンションとして知られた。
 「黙っていても年間25億円もの印税が入ってくる」というジョンは、ヨーコ夫人、そして息子のショーンと3人で、このマンションに住んでいた。射殺された日、ジョンは、プロデューサーであるジャック・ダグラス氏と、マンハッタンのスタジオ「レコード・プラント」にいた。ジョンがスタジオを出たのは午後10時半のことだった。ジャック氏によると、ジョンは、リムジンでヨーコ夫人、そして友人の2人と一緒に帰宅したという。
ジョンが自宅に戻ったのは、それから20分後のことだった。ジョンが、玄関先まで歩いてきた時、物陰から黒のレザージャケットを着たチャップマンが近づいてきた。その時、チャップマンは薄笑いを浮かべていたそうだ。チャップマンは「ミスター・レノン」と呼びかけた。その呼びかけにジョンが振り返った瞬間だった。「バーン!バーン!」。ジョンを目がけて至近距離から38口径のピストルを放った。チャップマンはジョンに向って5発の銃弾を撃ち込んだ。
ジョンは、数歩よろめいて、その場にバタリと倒れた。ヨーコ夫人の通報で、すぐさまルーズベルト病院に運ばれたが、即死に近い状態だったそうで、午後11時過ぎに死亡が確認された。ルーズベルト病院の担当医師によると、胸に3ヶ所、左腕に2ヶ所の銃創があったという。背中には貫通した銃弾の痕があった。
チャップマンは、ジョージア州生まれ。10代から20代の前半までアトランタで育ったという。事件を起こす3年前の77年からハワイ・ホノルルに住んでいた。事件の1週間前にニューヨークにやってきて、3日前から、少なくとも3回はダコタ・ハウスの周辺を見て回っていたことが明らかになった。周辺をうろつくチャップマンの姿は、その後の住民の目撃証言からも確認された。
「チャップマンは10月にホノルル警察に銃砲所持許可を申請していたんです。犯罪歴がなかったために許可されたんです。そのため、許可が下りてから、その足で警察のすぐ近くの銃砲店で、事件で使用した38口径の銃を購入したといいます」(当時を知る関係者)。
そういった経緯から、捜査を行ったニューヨーク市警は、ジョンの射殺事件は、チャップマンによる「計画的犯行」と断定した。チャップマンは、ジョンを撃った後、その場にピストルを投げ捨て、うずくまった。しかし、警察官が駆けつけ現行犯逮捕して連行される時には、顔をニヤニヤさせていたという。さらに、接見した弁護士に対してチャップマンは「なぜ、殺したのか分からない」などと口走っていたという。
因みに、ジョンは10月9日に40歳の誕生日を迎えたばかりだった。来年は「生誕70年」である。