マイケルの秘話: 数回寝たことがある!? 映画「ホーム・アローン」の子役だったマコーレー・カルキンとの関係…

マイケル・ジャクソンの死去は世界中の音楽ファンを悲しませているが、連日の報道でCDやDVDは爆発的なセールスとなっているという。しかし、マイケルと言ったら、やっぱりスキャンダラスな部分を語らずにはいられない。早い話、スキャンダラスでなければスーパースターになれないということである。
そのマイケルで話題になったのが、子役の俳優として知られたマコーレー・カルキンとの関係である。
マコーレー・カルキン-―「世界一有名な子役」として「ギネスブック」にも認定されている。彼は、映画「ホーム・アローン」に主演するなどで爆発的な人気になったが、マイケルの少年に対する性的虐待にも登場してきた。
カルキンは、マイケルの「ブラック・オア・ホワイト」(91年)のプロモーションビデオ(PV)に出演したり、マイケルとは何かと親交が深かった。そういった中で、出てきたのが、マイケルとの関係だったわけである。
米メディアによると、カルキンはPVに出演する前の90年――10歳の頃から4年間の間に数回、マイケルと一緒に寝たことがあると認めている。このことから、05年にマイケルの裁判(カリフォルニア州サンタマリア地裁)での裁判に、マイケル側の証人として出廷したこともあった。
少年時代にマイケルから性的虐待を受けたか?と問われたカルキンは「一度もない」と証言。マイケルと「数回寝たことはある」と報道されたことについても「遊び疲れて寝てしまっただけ」とした上で「とても自然なことだった」と説明した。
また、不自由な少年期を過ごした者同士として「(マイケルとは)話が合った」と振り返った。
もっとも、検察側の証人として出廷したマイケル邸の元料理人は、91年当時について、2人がビデオゲームで遊んでいた時に「マイケルがカルキンに性的イタズラを加えているところを目撃した」と衝撃的な証言をしていた。
結局、マイケルとカルキンの仲が良すぎたことが「誤解を生んだ」と判断。地裁は、カルキンの証言を採用し、マイケルの少年への性的虐待裁判は無罪となり、釈放に結びついたと言われる。
カルキンは、80年8月26日に米ニューヨークに生まれた。父親は舞台俳優で、7人兄弟の3番目で、兄姉も俳優、さらに伯母は映画「ダイ・ハード」でブルース・ウィルスの妻を演じたボニー・ベデリアという、俳優一家の中で育った。4歳からYMCAのダンス・スクールに通いバレエを習い、アメリカン・バレエ・スクールに進み、ニューヨークのシティ・バレエ団で「くるみ割り人形」などの舞台に立った。その後、87年に映画デビューしたが、出世作は90年の「ホーム・アローン」(クリス・コロンバス監督)への主演大抜擢だった。
同映画の世界的ヒットで、カルキンは一気にスターダムに上りつめ、「マイ・ガール」や「ホーム・アローン2」「リッチー・リッチ」など僅か4年間の間に9本もの映画に主演した。
しかし、人気が高まる一方で、カルキンの家庭はズタズタだった。両親がカルキンの芸能活動を巡って対立、父親から暴力を振るわれたりでノイローゼになり、その結果、カルキンはアルコール依存症となり、96年5月には「家庭内の問題が解決するまで俳優を続けることは出来ない」と事実上の引退宣言をするまでに発展した。
マイケルと、どこか似たもの同士だったことは間違いない!

“照明、踊り、華やかさ…このステージに私も立ちたかった”元グラドル小向美奈子の初ストリップが千秋楽を迎えたが…

holiday-P1020012.jpgholiday-P1020022.jpgholiday-P1020014.jpgholiday-P1020019.jpg覚せい剤を使って逮捕され、執行猶予付き有罪判決が下った元グラドルで、借金の返済のため?ストリッパーに転身した小向美奈子の初舞台が東京・浅草のロック座で行われていたが、その舞台が29日に千秋楽を迎えた。約1ヶ月、25日間の公演だった。
契約を解消された前所属事務所との“覚書”で、「ヌードにならない」「ビデオ、写真集を出さない」「芸能活動は一切行わない」と約束していたにも拘らず、いきなりストリップ劇場に出ることが分かり、前所属事務所は「出演禁止」の仮処分を東京地裁に求め、その仮処分が下ったのにも関わらず“強行出演”してきた。どうやら、ストリップ出演は「芸能活動」ではなく「風俗嬢の仕事」というのが理由らしいが、その結果、とにかく、テレビや新聞、週刊誌を賑わせてきた。人気グラドルでも、単なるチンコロネエちゃんだった小向が、今や“時の人”となった。大したものである。
何といっても、千秋楽には、僕も行ってしまったほどである。しかも、ロック座の劇場では“出ベソ”と言われる飛び出したステージの先端、いわゆる“カブリツキ”に座ってしまった。両隣には、大きな花束を持ったオタク風のニイちゃんが、小向を応援していた。それにしても、前の席はいいが、観ていると首が疲れる。これには参った!!
さて、その小向のストリップの感想は後に回して…。
さすが、千秋楽とあって最後の回には300人が詰め掛け、会場は熱気に包まれていた。聞くところによると、初日と同じくらいの入りらしい。入場料8000円で300人。たった1回のステージで240万円。1日4公演だから、1000人入ったとして1日だけで800万円の売り上げである。これが25日というと…。
ところで、公演後、会場内で小向による記者会見が行われたが、これも凄かったのは、テレビ局、週刊誌や新聞のカメラマン、記者と軽く150人を超えていた。「恐るべし!小向!!」である。
しかも会見が行われたのは午後11時45分である。深夜の記者会見に、何でこんなに来るの?って感じである。正直言って「風俗嬢」の会見ではない。これは明らかに「芸能人の会見」である。
会見の前に司会の女性が「記者会見の会場をどこにするか検討してきましたが、再起を賭けて臨んだ、このロック座での会見を小向が望んだ」と説明していた。しかし、ここ以外、時間的にも会見する会場はないだろうけど…。それに、ロック座にとっても宣伝になるわけだし。
緊張しきった表情の小向は、まずは今回の騒動を謝罪した上で「25日は長かった。私の中では、無事に終わることが出来るか不安だった。でも、終わってみると、そういった不安を乗り越えてきたことが、自分にとって大きな自信にもなった」と言い、出演したことに「後悔はない」といった表情を見せていた。
「(ストリップ出演は)知人に、ロック座を紹介してもらい、初めてストリップを観させていただいた時、それまで抱いてきたストリップのイメージがいっぺんに変わりました。照明、踊り、華やかさ…。このステージに私も立ちたいと思いました。まさに芸術の場だと思う」。さらに「ストリップは、体で表現できるもので、素晴らしい。これからも機会があったらやりたい」と意欲を見せていたが、まるで、ロック座のストリップを宣伝しているかのようだった。
因みに、ロック座では小向に「3~4ヶ月に1回の割合で今後も出演してもらいたい」とラブコールを送っていた。
ところで、肝心な契約を解消された前事務所との問題だが、出演禁止の仮処分が出ていながら強行出演したわけだが「現時点では話し合いは全く進んでいない」そうだが、今回は「黙認」だったうだ。そういったことから今後は、小向本人が前所属事務所と直接、話し合って解決を図っていくのだという。そういった意味からか、嘘か本当か「所属事務所は決まっていません」。
いずれにしても、全てが計算され尽くされたような今回の小向のロック座出演だったが、では、小向の初ストリップはどうだったか?彼女のような人気グラドルが、いきなりストリップに転身したのは前代未聞のこと。それも、借金を返済するために自分が決めたのだからいいだろう。が、正直言って、彼女は、ストリッパーには向いていない!! だいたい踊りも不十分。いや踊りのセンスがないといった方が適切かもしれない。彼女は会見でストリップは「芸術」と言っていたが、彼女のストリップは芸術なんかじゃなく、小向の場合は、グラドルの単なる“裸ショー”だろう。素人でも、あんな踊りはしない。しかも25日もやってきて…。もちろん「頑張っている」ことは分かるが、ぶっちゃけ、小向のステージは“ショー・ビジネス”では通用しない。前記したように「人気グラドルだった小向の裸踊り…」という程度のものだった。会見で「(ストリップは)体で表現できる…」って言っていたけど、何を表現したかったのか?ちょっと理解できなかった。正直言って、小向以外の周りのストリッパーが上手すぎるのだ。それもみんなスタイルが良すぎる。それに比べ小向は、驚くように太っていて、何故かステージの上では浮きまくっていた。あれにはショックだった。これが、あの人気グラドルだった小向?と思ってしまったほどである。いやいや驚いた。ハッキリいってイメージダウンは明らか。前所属事務所は、そのことが分かっていたのではないか?いろいろな意見があるだろうけど、小向にとってストリッパー転身は失敗だったことは確かだ。

死去当日、マイケルはロンドン公演のリハーサルをLAダウンタウン近くの“ステープラセンター”で朝方までやっていた!!

マイケル・ジャクソンの死去について、ロサンゼルスの音楽関係者から新たな情報のメールが届いた。そのメールには
「彼についてた新しいマネジャーで、黒人女性が1人いるんですが、その女性がたまたま、私の友人(俳優)の親友だったんです。彼女からマイケルが亡くなった当日のお昼頃電話があったのでお伝えします」
と書かれていた。
まるで「私の友人の友人はアルカイーダ」と言っているようだが…。で、そのメールによると
「マイケルの家の前にいるけど、ゲートが開いていたから何かあったのかも、セキュリティーも誰も門にいないからどうしたらいいのか…。警察に電話しようと思うけど」
ちょうどその時に救急車が入ってきて、
「何が何なのか、わからないけど…」と、家の中に入ってみると、マイケル本人が倒れていいたと言う。
「専門の医師が心臓マッサージをするなど、あらゆる手を尽くしていました。すると、そこに救急隊員が来て、すぐに救急隊員に手が変わりました。私は状況を聞かれていましたが、マイケルは、すぐ近くのUCLA付属の救急医療センターへ運ばれました」
この時は、もう凄かったという。しかも、その様子は、すぐにニュース速報も流れ、そして(現地時間)午後2時26分に亡くなった。
「これは急なことだったの?」
と尋ねると、彼女は
「マイケルは、前日からロンドン公演のツアーのリハーサルをロサンゼルスのダウンタウン近くにある“ステープラセンター”で朝方まで行っていました、その後、家に戻って薬を投与したんです。発作は、その際に起きたようなんです。もしかしたら、疲れもあったのかもしれません」。
と言っていたという。


信頼してたマネージャーに裏切られ…。日テレジェニック橘麗美の“引退宣言ブログ”とは…

20090628190617.jpg「グラビアをやり始めたのは歌手になるためでした」「私の夢はあくまで歌手。グラビアアイドルが歌を出したみたいに思われたくありませんでした」「信頼してたマネージャーに裏切られ、ショックでblogで普通に振りまうのに精一杯でした」
最後に思いの丈を言い放ったグラドル橘麗美は、自身のブログ「レイミ的ハッピーラボ」で何を言いたかったのか?
彼女のブログの全文は次の通り。

突然ですが。
私は芸能界をやめます。
これ以上嘘は付けられません。
応援してくれる皆の為にも長いですが自分の正直な気持ちを話します。

グラビアをやり始めたのは歌手になるためでした。
自分は歌唱力も中途半端、かといって素敵な曲が作れる訳でもない。
だけど諦め切れない。
ならば、皆に先に自分の名前を知ってもらおうと、1番最初の事務所と話した結果、グラビアを始める事になりました。
最初の事務所はグラビアに強い事務所だったので、何かと順調にグラビアに進出出来、日テレジェニックやヤングジャンプの制コレにありがたい事に選ばれました。
自分の体に自信なんてないし、カメラ嫌いだし、グラビアをやることで親に毎日のように「汚らわしい」とか、エロ本の表紙をやった時には「縁を切る」とか色々言われました。だけど「グラビアをやってるのは歌手になるための手段だから」ッテ毎日自分に言い聞かせてました。
その反面、blogでアイドルらしくしろとか、ただの汚いヤンキーとか、色々言われると、アイドルになんてあたしだってやりたくないのにッテ思ってました。
だけど夢の為だから頑張ろうと。
本当は全然明るくないし強くないし根性もないし根暗だしネガティブだし引きこもりなんです。
だけどいつしか明るくしすぎてれば、偉そうにとか、うるさいとか、口が悪いとかッテしてた方が何かとやりやすい事に気付いたんです。それがヤンキーとかのイメージに繋がって行った感じでした。
嫌だったけどもうそれで良いとも思えて来ましたし。
日テレジェニックや制コレの期間が終わる間近に、このまま自分が終わると思った私は最初の事務所にテレビにも出たいと言いました。でも事務所はテレビに力がないという事だったので、移籍しました。私の夢はあくまで歌手だからです。グラビアアイドルが歌を出したみたいに思われたくありませんでした。そのためにもテレビに出て、グラビアだけじゃない自分を皆に印象づけたかったんです。
移籍でblogでも周りでも沢山の人に罵倒されました。いくら説明しても分かってくれない。わからないのに勝手な事を言わないでとそのたびに思いました。
毎日泣いて毎日が不安で、だけど夢を諦めたくない気持ちでいっぱいっぱいでした。だけど、次に移った事務所も力がなく、私はいつの間にか違う事務所に移されてました。傷ついたケド、今度こそ事務所に大切にしてもらえる、これでまた頑張れると思っていたのに、マネージャーに裏切られました。それが発覚したのはオフ会まで2週間の時でした。信頼してたマネージャーに裏切られ、ショックでblogで普通に振りまうのに精一杯でした。
オフ会まで毎日泣いて傷付いてボロボロすぎました。それでもオフ会で応援してくれてる皆に会えるッテいう気持ちだけを支えにして過ごしてました。その間も朝カラ晩まで大人の嫌な面を目の当たりにして、何もしてないのに私自身のせいにされ、反抗することも、そんな力すらもありませんでした。表面上上手くいってるように見せる事しか出来ませんでした。オフ会当日もオフ会の後すぐに大人の中に放り投げられ、言葉に出来ない位怖かった。あたしはただ、皆で協力しあえたらなぁッテ思ってたのに。そして何度も何度も何度も訴えたのに無駄でした。そんな中、事情を知って助けてくれる大人に出会いました。
だけどその人は事務所を持ってないし、私もこれ以上移籍したら芸能界カラ干されると思ってナカナカ移籍出来ませんでした。でもその人は事務所を見つけてくれる、移籍しても大丈夫と説得してくれて、今までマネージャーに裏切られ、信用出来ないと思った私は絶対に事務所を見つけてくれるという条件で今までいた事務所をやめる事にしました。
私の誕生日の週に事務所を見つけるカラ大丈夫と言われたので待ちました。
だけどみつからず。
その次の週もみつからず。結局今日まで忙しいというよく解らない理由で事務所は見つからないという結果に。すごくよくしてくれてた方だから信頼してたけど、不安は募るばかり。仕事も「やりすぎコージー」以外メジャーなものはなく。雑誌にも出れず。ネットの番組で水着を着て笑って出てる自分を見て、あたしはどんどん夢カラ遠ざかってるンじゃないのかって思いました。

前はエロ本に出ようが、日テレジェニックだったしヤンジャンの表紙や他の雑誌にも出れてたから嫌なアイドル業も夢のためだと我慢できたケド、それよりも遥か下にいる私の今の姿はなんだろうと。

案の定、周りにも「明らかに仕事の質が落ちた」ッテ言われました。こんなはずじゃないのに。
夢は変わる事なく歌手なのに。

大人はそんなの無視。

いくら頑張っても頑張っても報われず。
誰にも助けて貰えず。
たった一人の小娘になにが出来ますか。
一人では無理だから事務所があるのに。
つらい事も誰にも言えず
一人で抱えて,髪がごっそり抜けて行く毎日。
どうやってこの状況カラ抜け出せるか。
明日は結局今日の続きなのだから。
一歩踏み出しても1000歩後ろに連れも出される。

blogで平静を振り舞う自分が嫌いでした。
笑顔なんて嫌いです。

限界でした。

芸能界のほとんどは使えなければ手ぶら、ティーバックにさせ、それでも駄目ならヌードやAVやらせて使い捨てる。

そこまでしなきゃ私は駄目なのか。
そこまでしなきゃ私は使えないのか。
私にはそこまでやる事が出来ません。
それが自分の夢に繋がるとは思えません。
好きでそれを職業にされている人とは違います。
そこまでしなきゃ上がれないなら根性無しと呼ばれてもかまいません。
これ以上汚い大人を見たくないし、振り回されたくないし、関わりたくない。
もう誰も信じられない。
運がないんです。
運は実力のうち。
私には実力がなかったのです。

今まで事務所をやめたいと思った事はあっても、芸能界をやめたいだなんて一度も本気で思った事ありませんでした。それは夢があったから。遠回りしたけど夢叶ったよッテ家族にいつか言える日が来ると信じてたから。

生まれて初めてやめたいと思いました。
やっていく自信がありません。
あたしには、本当に悔しいし情けないケド無理だってつくづく思い知らされました。

平和に過ごしたい。
ちゃんとお給料貰える仕事につきたい。
ひっそりと静かに暮らしたい。
だから私は今日、芸能界をやめる事にしました。

ごめんなさい。
これだけ説明してもきっと分かって貰えないだろう。
だけど、私の人生です。
病気になる程つらい思いはもうしたくありません。

今までこんな私のためにありがとうございました。

本当に感謝しています。

そしてごめんなさい。
幻滅されて仕方ないと思います。

応援してくれてる皆
本当にごめんなさい。

blogはオフィシャルなのでここではもう更新しません。
橘麗美という人間は今日で最後です。
皆お元気で。
ありがとう。

Bye-bye。

橘麗美。

グラビアは歌手になるための手段でやりたくはなかった !! 日テレジェニックの橘麗美が自身のブログで引退宣言!!

holiday- 橘麗美2.jpgあるグラビア系のプロダクションの“なんちゃって社長”から電話がきた。
「大変です」
「何が大変なの!! 日曜日だよ、きょうは!!」
「橘麗美がやめたんです」
「誰!?  橘麗美って?」
「えっ、知らないんですか? 08年の日テレジェニックだったんですよ」
「日テレジェニックであろうと何であろうと、急に言われてもわかる分けないじゃん!! だいたい、何でやめたの?」
「芸能界が嫌になったらしいですよ。裏切られたらしいですね。歌手になりたかったのに、グラビアをやらされたってブログで書いて話題になっています。もっともブログは削除されていますが…」
「誰が話題にしているのさ!? だいたい、その橘麗美っていう子が芸能界からいなくなっても誰も気づかないって」
「そうですかねぇ。でも、大変なことなんですよ。サンスポのネットでも書いてますよ」
「オタクの記者がいたんじゃない? フツー気づかないよ。そんなブログ。しかも削除されているんだろ?」
「いや、でも、すごいことだと思いませんか?」
「分かった分かった、だったら、【ヘッドロック】で追悼してやるよ!」
なんて言いながら、その橘麗美というグラドルの「レイミ的ハッピーラボ」っていうブログを見たが、削除されていて見ることが出来ない。
鹿児島県の与論島出身の23歳のアイドルらしいが、このブログを入手したところ、長い長い。実に3000字にも及ぶ。200字詰原稿用紙だったら15枚である。最後だから長文で思いの丈を、これでもかこれでもかと書き残したのだろうか?しかし、彼女がブログをアップしたという27日は、日本テレビ系オーディションバラエティー「アイドルの穴~日テレジェニックを探せ!」(土曜深夜1・20)で、第12期ジェニックの5人が決定した日だった。彼女は第11期らしいが、何か、見事にタイミングを合わせたかのようなブログである。でも、読んでいたら、芸能界のことやグラビア界のことを暴露しているかのような内容で、肝心な部分を曖昧な書き方をしているだけに興味深く面白く読めた。
グラビアは「歌手になるための手段だった」。まあ、よくある話である。しかし、彼女も「運も実力のうち」と言っているが、その通りだろう。所属する事務所、出会う人が悪かったのだろう。彼女自身「マネージャーに裏切られた」なんて言い放ってもいる。そういった意味では、辞める踏ん切りがついてよかったのかもしれない。しかし、歌手を目指していたはずなのに「ちゃんとお給料貰える仕事につきたい」なんて、それなりにグラビアに出ていても、実際には給料制ではなかったのか? 歩合制だとしたら、いい時はいいが、おそらく悲惨だっただろう。そういった意味では、読んでいると実にリアルなブログである…。とは言っても、これからの生活もあるし、今後を考えたら、与論島に帰るかキャバクラ入りしかないだろう。(つづく)


【緊急連載9】マイケルの少年虐待疑惑ではエミネムがPVでおちょくった!? 全米での放映差し止め要求に発展!!

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今になってみたら笑い話だが、マイケル・ジャクソンに関しては、こんなこともあった。
カリスマ・ラッパーとして世界中から人気の高いEMINEM(エミネム)が、マイケルをコケにしたプロモーション・ビデオ(PV)を制作したことがあった【写真3】。5年前の04年のことだ。
94年11月15日、当時2年半ぶりに発売したオリジナル・アルバム「アンコール」のPVで、日本のユニバーサルミュージックは、特注した5トン・トラックを都内、横浜で走らせたが、そのトラックのドライバーにマイケル・ジャクソンの覆面と衣装を着させて運転させたことがあった【写真1】。当然、熱烈なマイケル・ファンは「マイケルを侮辱している」と大激怒したものだ。
それにしても一体、何でそうなったのか?
アルバム「アンコール」のリード・シングル「ジャスト・ルーズ・イット」のPVが要因となっていた。このPVの中で、EMINEMはマドンナやハマーに変装しているが、圧巻はマイケル・ジャクソンをおちょくったシーンだったのだ。社会問題化していたマイケルの少年虐待疑惑をモチーフに、EMINEM扮するマイケルがPV全編に亘って登場していた。
このPVで度肝を抜いたのが、後半のシーン。EMINEMとマイケル(1人2役)が向かい合った途端、EMINEMがマイケルの顔に向けて嘔吐するのだ【写真2】。そればかりではない、整形の噂のあるマイケルの顔から鼻の部分が床に転げ落ちるネタまで盛り込んでいる。しかも、その鼻をPV出演者が蹴り回し、マイケルが鼻を拾うために床を四つんばいになって探しまわすことまで演出している【写真4】。
このPVに、さすがのマイケルも激怒した。早速、全米のメディアに対して「放映差し止め」を要求。さらに、マイケルは、アメリカでは国民的俳優にしてコメディアンとして人気の”キング・オブ・コメディ”ことスティーヴ・ハーヴェイがDJを務める人気ラジオ番組「ザ・スティーヴ・ハーヴェイ・モーニング・ショウ」に電話をかけ「EMINEMとの確執は何もなかったのに…」と訴えた。
このマイケルの悲痛な叫び?に、スティーヴは「MTV、VH1もBETに従って放映を禁止すべき」と異例のコメントを発表するなど、米国での波紋は広がった。 こういった米国の動きに乗じて展開されたのがユニバーサルミュージックのトラックによるプロモーション展開だったわけだ。「ただ走らせても面白くない」と、PVに連動したジョークとして、マイケルの覆面と衣装も同時に特注。「運転手に着させて走らせた」という。
しかし、このジョークが思わぬ事態へと発展してしまった。マイケルの熱狂的なファンから「マイケルをバカにしすぎている」「冗談も度が過ぎる」と言った声から「マイケルに対する悪質な嫌がらせ」「人権侵害」と非難が続出。ついに、担当者も「ちょっと火遊びが過ぎた」と陳謝、トラックによるプロモーションは当初の予定より9日間も切り上げ打ち切った。
それにしても、5年前もの話だが、果してEMINEMはマイケルの死をどう思っているのか!?(連載おわり)

【緊急連載8】54億円の和解金交渉で93年当時の少年への虐待容疑は少年側が訴え取り下げマイケルは逮捕免れる!!

「マイケル・ジャクソンは、ジョーダン君とは別に、ビバリーヒルズに住む13歳の少年からも性的虐待に対する損害賠償請求訴訟も起こされていた。このため、捜査当局は何とかマイケル本人から事情聴取をしたいとしていましたね。米帰国後、英大衆紙『サン』は『48時間以内に下半身検査を受けなければならない』と報じていました。その一方で、マイケルの周辺からは『マイケルの即逮捕はない』『マイケルの弁護団は、マル秘扱いを条件に身体検査に応じることに同意した』と裏取引があったとする情報も流れていました」(米国在住のマスコミ関係者)。
そういった中、マイケルは93年12月23日、自宅から衛星中継を使って、テレビで疑惑に対する釈明と自分の白黒まだらペニス写真をロス市警に渡した事実を告白した。
衛星中継の中でマイケルは「私が少年に不正な行為をしたという話が広がっています。こうした話は全くデタラメです。私は、初めから、この恐ろしい試練か早く解決するように望んでいます」と何度も主張した。
さらに「私はサンタバーバラの保安官とロス市警から、ひどい扱いを受けた。捜査令状には写真撮影命令があった。私の性器、尻、下半身、もも、どこでも撮影させるようにと命じました」とも。
その上で「全くの悪夢です。恐ろしい悪夢です。しかし、真実を証明するため従うしかありませんでした」とした。
事件が急展開したのは年が明けた94年1月のことだった。マイケルは、日本円で54億円(推定)と言う巨額の和解金を提示しジョーダン君と和解交渉をした。この結果、ジョーダン君側はマイケルからの性的虐待の民事訴訟を取り下げることで合意。94年1月25日に示談成立が少年側の弁護士から正式発表された。
この示談成立で、当時、マイケルの性的虐待容疑を刑事事件として起訴しようと意欲を見せていたロス市警の捜査は頓挫してしまった――。(つづく)

【緊急連載7】マイケルは“少年虐待疑惑”のプレッシャーから鎮痛剤を服用“薬物中毒”に陥り世界ツアーは打ち切り!!

93年年末。13歳の少年ジョーダン・チャンドラー君に対する性的虐待容疑で世界のスパースター、マイケル・ジャクソン(当時35歳)は逮捕秒読みとなった。マイケルは、疑惑のプレッシャーから鎮痛剤を乱用、何と”薬物中毒”に陥ってしまった。この結果、世界ツアーは打ち切られた。
 マイケルは、親友のエリザベス・テーラーに付き添われ、メキシコシティーからロンドンに飛び、チャーター・ナイチンゲール診療所で治療を受けることになった。その間、被害者のジョーダン君は4ヶ月に亘って性的イタズラを受け、ロス市警には「マイケルのペニスに特徴があった」と話した。
 このためマイケルは、警察に裸にされ身体検査をされるとも報じられた。「マイケルは身体検査に怯え、証拠隠滅を図るため性器の整形手術を受けているとも噂されました」(関係者)。
 どうやら、マイケルのペニスは事件のカギを握る重要な”証拠物件”になりそうな気配に…。「マイケルはホモで女性を殆ど知らないから包茎ではないか」とか「右か左に曲がっているのではないか」と言った憶測が業界を駆け巡った。もっとも、真相は闇の中だったが…。
 ツアー中止後、ロンドンで療養生活を送っていたマイケルが米カリフォルニア州南部にある自宅に戻ったのは93年12月中旬だった。
性的虐待疑惑で窮地に立たされたマイケルだったが、弁護士の助言に「無実を証明するために帰国した」ものだったが…。(つづく)

【緊急連載6】マイケルの“少年虐待疑惑”で自宅からは少年の裸の写真がロス市警によって押収された…

マイケル・ジャクソンの“少年虐待疑惑”が、日本国内で最初に報じられたのは93年8月21日のことだった。少年ジョーダン・チャンドラー君(当時13歳)の警察当局への供述書が発覚した。
それによると、マイケルがしばしば少年をベッドに引き入れ、セックス行為をしたという。また、少年に対してマイケルは、この事実を口外すれば「少年鑑別所に送られる」と脅迫していたとも。しかし、少年はマイケルとの関係の詳細をロサンゼルス児童福祉局のケースワーカー、アン・ロサト氏に報告した。
その後、カリフォルニア州南部のマイケルの自宅から少年の全裸の写真が米ロサンゼルス市警によって押収されたことを、英大衆紙が報じて大騒ぎになった。英大衆紙には少年側の証言として「マイケルの上半身は白いが、下半身は黒かった」と述べていた。
この時、マイケルは世界ツアーの真っ最中だった。少年虐待が報じられた日はタイのバンコクに到着した日だった。マイケルは、報道を知らされ錯乱状態に陥ったと言われている。この時も、少年のジョーダン君の弁護士が9月15日、ロサンゼルスの裁判所に性的暴力など7件の容疑で民事訴訟を起こしている。この7件の容疑とは「性的暴力」「暴行」「誘惑」「意図的な不法行為」「意図的に感情的苦痛を与えた」、そして「詐欺」「過失」。提出された訴状は、マイケルが少年に「口で交接」(フェラチオ)したり、マスターベーションをさせたりして少年に対して多大な苦痛を与えたとしている。
また、マイケルは少年の法的権利を奪うために虚偽、隠蔽工作を行ったとし、金額は裁判所で決めることとして「懲戒的な損害賠償を求める」とした。訴えが認められれば、賠償金は数百万ドル(数億円)にも上るとされた。
「それまでも、マイケルには少年虐待の噂が上っていたが、正式に訴えられ裁判にかけられるのは、この時が最初だった」(音楽関係者)。
これをキッカケにロス市警の捜査も急展開、事件は重大新局面に入った。因みに、マイケルが有罪となれば、カリフォルニア州法では15年前後と言われた。(つづく)

【緊急連載5】マイケルを悩ませたセックス・スキャンダル。始まりは16年前の再来日直前…

「マイケルは無罪」「正義は貫かれた」――。
“少年虐待疑惑”で訴えられていた世界のスーパースター、マイケル・ジャクソン被告に「無罪評決」が下ったのは丁度4年前の05年6月13日のことだった。4年の月日が、まだ昨日のことのように感じる。しかし、その間に来日を果たすなどアクティブな活動を続けていた。
ところで、この“少年虐待疑惑”の時、被告だったマイケルが問われていたのは10の罪状だった。全てで有罪になった場合は、20年近い禁固刑が予想されていただけに、世界中のマイケル・ファンは飛び跳ねながら抱き合い、マイケルの「完全無罪」を喜んだものだ。
「マイケルに逮捕状」の一報が世界を駆け巡ったのは03年11月19日だった。
容疑は児童への性的虐待。その後、12月18日には、サンタバーバラ郡地検に14歳未満の少年に対する性的虐待など10件の罪で起訴されていた。
マイケルの裁判では、12人の陪審に黒人が1人もいなかったことから「裁判は不利」とされた。しかし、評決で「無罪」になったことに「人種差別的な要素はなかった」と、司法専門かも陪審の冷静な判断を評価した。
マイケルのセックス・スキャンダル――少年虐待疑惑は「マイケルの性癖」とも言われてきた。日本で最初に、この”疑惑”が報じられたのは93年だった。マイケルの再来日公演直前のことだった。マイケル・ジャクソン35歳の時だった…。(つづく)